ツイッターに書ききれないことを書くところ

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語学と、ウィトゲンシュタインと、小さな食堂で食べる夕方5時のランチについて

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前回の文章を、日本語を勉強している人が見てくれているとは思っていなかった。巧さという面でもそうだが、内容に対して分量が長すぎたことはとてもよくなかった。文章と話の長さは必要最小限にしなければ、と思いながらどうしても長々となってしまうものだが。

そういうこともあり、折角なので今回は語学について書こうと思う。僕は今、ポルトガル語を勉強している。

 

どんな言語を勉強する際も、大体「こんにちは」「ありがとう」あたりを最初に覚えるだろう。僕もそのあたりの挨拶ならば当初から知っていたので、何かしてもらったときは「Obrigado」と言っていた(これは男性が使う表現だ)。相手は、「(De) nada」と応じる。「どういたしまして」。短い単語だということもあってか、ポルトガルの人はほぼ毎回これを言う。

僕がフラットメイトに英語を教え、僕はポルトガル語を教わっているのだが、「英語で『どういたしまして(Nada)』はなんというのか?」と聞いてきた。たとえば「Thank you」に対して「It's nothing」と答えることはできると思うが、毎回そのように返すのは違和感がある。僕は支離滅裂なポルトガル語で、英語にはそれにあたる表現はない、と答えた。日本語にならあるんだけどな。

 

ついでにこの3つの言語の、感謝を表す言葉の語源を見てみる。

  • ありがとう - 滅多にないことだ
  • Thank you - してもらったことに対して、考えている(Thank≒Think)
  • Obrigado - お返しをする義務を感じている

このように、まったく異なっている(確実なソースが見つからないので、もしかしたら間違っているかもしれない、すみません)。もちろん僕だって言うたびにいちいち考えているわけではないし、語源の違いに文化としての優劣を感じたりなどするはずもない。ただ、違うということが面白い。同じ状況で使われる言葉がカバーするところの意味が、本質的には全く異なっているということが。

 

特定の状況をカバーできない言葉があったり、同じ状況で使う言葉でもその本質的な意味が全く異なっていたり。想起させるのは、「言語の限界が世界の限界である」、ウィトゲンシュタインの言葉だとどこかで聞いたことがある。これが意味するのは、外国語学習によって世界が変わる、ということだろうか?

ちょうど第三の言語を学ぼうとしていることもあり、少し考えてみた(授業で取っていた韓国語を含めると第四だがそれはノーカウントだ、悲哀)。世界は言語のフィルターを通って見えている、というのは率直に言って少し安直に過ぎるのではないかなと思う。

 

先ほど見た三か国語の「ありがとう」の差が、言語同士でなく個人同士にも存在すると考えるのはどうか。つまりある言葉と特定の状況の結び付け方の差が。たとえ同じ言語の同じ言葉だとしても、どのような状況で使うかはひとりひとり少しずつ異なっている。「この言葉はどのように使う」というのは辞書が決めるのではない。今までかかわってきた人、身の回りにあったものによって決まってくるのだろう。「話せばわかる」はありえない、たしか「バカの壁」で言われていたことだと思うが、それと通じるものがある。外国語にしても、経験によってじかに学ぶか、同じく経験によって学んだ母国語を経由するか、そのどちらかだ。だから僕は、言語そのものによってものの見方が変わるとは思わない。あくまで経験がものの見方を決める。

では何が変わるのか、それは自分が伝えられる世界である。いや前述のことを考えて「生み出せる世界」というべきか。外国語だけではない、方言も、ひょっとしたら訛りでさえも。その言葉を話す人々と触れ、ひとつひとつ自分のものにしていくこと。「クソ寒い」でなく「しばれる」が使えるということ。そのことで、自分の生み出す世界はより生き生きとしたものになってくるのではないか。

 

「Nada」。僕には時として「なーど」のように聞こえる。

なにひとつとして話せなかった僕の「Obigado」に対するおばちゃんの「Nada」が、「なんの(お安い御用)」という日本語の響きに少し似ていて微笑ましくもあり――その言葉は僕の経験にそっと触れ、遠い日本へのsaudadeを感じさせた。

音楽:Natsukasii - Helge Lien Trio