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トランプ現象におけるフェイクニュースと、イタリア語での悪口と、我ながら的を得た意見について

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先日、BBCかどこかのウェブメディアでフェイクニュースの特集をやっていた。せっかくの機会なのでフェイクニュースについて色々と読んでみた。

今、僕たちは「post-truth」の時代に生きていると言われている。情報の正確さよりも、いかに読み手の読みたいものを、見る者の見たいものを、強烈な印象とともに届けるか。メディアというものがそういう方向に流れつつあったのを派手に再確認させられることになったのが、2016年のアメリカ大統領選だった、と。

 

ワイアード日本版の、年始の挨拶から引用する。

かつてマスメディアというものは、狭い村の外にある世界の存在を明かし、あらゆる村を超えてみんなが共有できる場所や、言葉や、価値を探るものだったように思う。トランプの選挙で旧メディアが全面敗北したというのは、マスメディアが棲み家としてきた、そうした「共有地」を誰も欲していないということを意味しているのだろう。

みんなが共有できる言葉。

 

 

 

ことば、とは?

 

 

 

先の文章で意図されていた「村の外の世界」とはたとえば正義に対する考え方だったり、社会そのものに対する向き合い方だったりすると思う。東ドイツの国民が、西側の生活をメディアを通じて知るようになった、というような。しかしもっと一般的に考えれば、僕がこちらでまったくバックグラウンドの異なる人と話す、ということだけで、外の世界と言葉を共有しているとは言えるだろう。

そこで共有できる言葉とはどのようなものなのか。

 

英語が母国語でない人同士の会話。そこで可能なのは、それぞれの母国語での知識から一段低いところに落ちたものになることは避けられない。言葉が正しい、間違っている、というより、言いたいことが伝わっていればそれが会話だと思うし、往々にして言語とはそういうものだと僕は思う。糸井重里氏の「ちょっと低いところで落ち合おう」の考え方である。もちろん、お互いの母国語を勉強する、ということも可能ではあるが、それも色々な国籍の人が集まる場所では、会話のレベルに限界がでてくるのではないか。僕はイタリア人とよく話すがイタリア語は下品な言葉しか知らないし、彼らも日本語の下品な言葉しか学ぼうとしない。「asshole」は日本語でなんて言うの?じゃねえよ。日本ではそれはポピュラーな罵倒語じゃない。

とにかく、こちらでは、英語を上達させてもある程度のところを超えると全く意味がなかったりする。お互いの言語能力の重なった範囲の中でしか、会話というものは存在しえない。相手に合わせた、ある種の妥協も必要なのだ。我ながら的を得ている。

 

もっと一般化すると、日本語話者同士の間にも同じことが言えるのではないか。

たとえば、言葉の誤用がよく問題になる。これはもう仕方がないことだ。誤用がそのまま定着した例も多いし、言葉というのは生き物で、皆がそういう使い方をするようになったのならもうそれでいいじゃないか、と思う。前の記事で書いたように(この記事は非常に稚拙で考えをうまく伝えられていないと思うが)、言葉と状況を結びつけるのは個人なのだから、辞書的な正しさというものをそこに追求し続ける意味があるのだろうか。

しかし、誤用をみつけるとすぐに見下したり、猛攻撃する人々がいる。そういう人の話に限って――少なくとも僕の経験では――「ここでその言葉を使うのは不自然じゃないか?ただ難しい言葉を使いたいだけだろう?」と感じることが多い。もちろんこれも個人の結び付け方にすぎないわけだから黙って聞いているが。

 

ここで、冒頭の「トランプ現象」に話がつながる。というのも先の話は、いわゆるポリティカル・コレクトネス問題に通じるところがあるのではないかと思うからだ。この記事で書かれている内容にも通ずるが、人を見下したようにポリコレを語る人というのは、言葉の正しさという閉じた系から出ようとしないという点で排斥主義者と変わらない。「低いところに落ち合おう、寄り添おう」という姿勢が、ない。

 

フェイクニュースの勢いはこれからも増すだろうし、情報の正しさを吟味する能力がますます重要になってくるのは間違いないことだろう。しかしその背景を検討せずに、正しくないものを、それに乗っかる人々を、ただ批判するだけ。自分たちよりもレベルが低いものとして見下すだけ。それはあまりにも大きい分裂を生む。

そういったある種の分裂が深まりすぎて起こったものこそがトランプ現象ではないのか。

正誤を追究し、しかし同時に追及しない、という生き方が、これから求められていくのだろう。ひとたび核戦争が起きてしまえば正しさがどうなんて言ってられないよ。個人的には、特にこう願う。せめて言葉というものだけは、それそのものだけは、正しさも間違いも平等に受け止める最後の受け皿であってほしい。

音楽:Drip - Tigran Hamasyan

 

 

 

 

 

※的を「得る」ってなんだ、「射る」だろ?ともし僕が思われたとしたら、そういうことだ。辞書的な正しさにさえも疑問符が付くことを示すためだけにこれがやりたかった。そのために文章の流れが奇妙に切断されてしまったがしかたがない。