ツイッターに書ききれないことを書くところ

たまに書ききれそうなことも書きます

震災と、コンタクトレンズの注文と、想像力の限界について

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こちらは、まだ3月11日だ。

僕が何か書いたところで、それが多くの人の目に触れるほど、このブログに影響力はない。それに、お金になることでもない。でも、たまに小難しいことを書いて、フェイスブックでセルフシェアなんかして、たとえば意外な人からの「いいね!」に喜んでいる僕としては、ほんとうに身もふたもない言い方をすると、震災というものを自己顕示欲のねたに使っているみたいで。自分でこんな風に書いているとますます自分がそう思えて、それに言い訳を探しているようで、嫌になる。とりあえずセルフシェアはしないでおこうと思うけれども。

それでも書くのは、考えたこと、伝えたいことがあるからで、そんなことに関しては記録に残しておきたい、大切な人に伝えたい、という気持ちが上回るからだ。

 

僕はあのとき愛媛県にいたので、揺れを感じることもなかったし、東日本の知り合いといっても親戚が関東に数人いるくらい。西日本の多くの人が恐らくそうであったように、僕はそれをテレビで見ただけだ。

次の日、僕は眼科の待合室の大きなテレビで津波の映像を見ていた。正直に言うとそれはあまりにも自分から遠い出来事だったし、被害に関しても画面上の数字だけで全く想像がつくようなものでもなかった。ただ、そのとき眼科にいたことを覚えているのは、強い感情の記憶が残っているからだ。

 

僕はそのとき、たしかコンタクトレンズの注文を、その眼科でしたと思う。何も変わったことはなかった。いつも通り。しかし。

「震災の影響で、いつもより届くまで日数がかかるかもしれません」「そうなんですか」

そのやりとりをしたときに、ふと心にわいてくる感情があった。それは寂しさに近いような、無力感のような、なんともよくわからない感情であった。僕にとっての震災は、コンタクトが届くのが少し遅くなるという、その中だけにあった。

そのころ入っていた中学校の生徒会でも、翌日から募金活動を行ったりしていたけれど。口ではなんとでも言えながら、僕が実質的に被った被害はほとんどなにもない。いつもと変わったことは何もなくて、授業をやって部活をやって、ACのテレビCMを冗談で笑いあって、それだけだった。

あのときの感情は何だったのか、いまだに言葉で説明することはできない。

 

それと似た感情を抱いたときがほかにもある。

フランスでテロがあったときに、プロフィール写真にいわゆるトリコロールをかぶせることについて、いろいろ議論が沸き起こったのを覚えている。ヨルダンでもテロで多くの人が亡くなったのに、なぜフランスにだけ?という疑問。それに関連して、このテロをイスラム国側と西側諸国の側の対立と考えた時に、プロフィールにトリコロールをかぶせて安易に西側諸国との連帯を示すことに対する懸念。実際に人が亡くなっているのだから、それに追悼を示すことにごちゃごちゃ言わなくてもいいではないか、という意見。

そのときも、僕は正直に言ってフランスとは何の関係もなかった。上に書いた懸念(とくにイスラム国との対立に関するそれ)はもっともだと思ったし、何か僕がプロフィールを変えると、流行っているから乗っているような、そう感じてしまって、やらなかった。しかし、何となく心に穴が開いたような感じも、同時にあったのだった。それが、あの感情だ。

 

 

 

追悼したり、連帯を示したりする、ということは、ほんとうに難しいことなのだと思う。「がんばろう」、と言わないでくれ、そんな記事もあの時はよく目にした。「〇〇を忘れない」「忘れてはいけない」といったところで、実際に被災された方は忘れたいと思うことだってたくさんあるのだろうし、それは僕が推しはかれることではない。今日もいろいろな方が震災について書いたり、書かなかったりしているが、ほんとうに慎重に書かれているのがよくわかる。追悼がお金やそのほかの欲ににつながっていることだって多いのだと思うし、それが善であるか悪であるか、たやすく判断できることでもない。テロ行為があったときに、それだけでなくその背後にあるものも知っていかなければならない、というのも事実であると思う。

 

でも僕にとって、本当に難しいのは。

僕は日々、「関係ない」と闘いながら生きているんじゃないか、と思う。震災のことで言うと、阪神・淡路大震災は僕が生まれる前の年に起こっている。はっきり言ってしまえば、それをリアルタイムで知らなかったのもあって、東日本大震災よりも遠いことだ。戦争だってそうだろう。僕はその苦しみを、本当の意味で知ることなどできない(と、願う)。アフリカではこの瞬間にも大勢の人が死んでいます。それが頭では分かったところで、僕は殆どの時間そんなことを忘れて過ごしているし、便利な先進国の生活を享受し続けている。

ご冥福をお祈りします、復興をお祈りしています、そんなメッセージに、「これのことは触れてこれには触れないのか」、という批判もよく目にする。この記事だって、僕がテスト前で家にいるから書いたものなのだろうし、もし飲みに行っていたら書かなかったことかもしれない。このポルトガルの地で、思い出しもしなかった、ということはないと思うが。

口でいくら言ったところで、想像する、ということには限界があるのだ。僕にとって、それは勉強する、ということの大きな意味のひとつだ。

 

もうひとつ。

それはいろいろな人と出会うということにもつながる。遠い国のことが、「あの人のいる(もしくはいた)国のことだ」になる。遠い震災のことが、「あの人が体験した震災だ」になる。

そんなふうに、僕は東北の大学に進学してから、震災があのときよりもすこし、近くなったことも感じている。僕にできることは、先ほど言ったように勉強したり、実質的な支援活動というのもそうなのだろう。しかしそれ以上に――まっすぐに言うと、今近くにいる人をどれだけ愛するかということだ。

 

僕はあなたが生きていてくれて本当に感謝しているし、出会えてよかった。