ツイッターに書ききれないことを書くところ

ツイッターに書ききれないことを書きます

山崎邦正100つっこみと、漫才のアイデアと、千鳥の「どういうお笑い?」について

f:id:sawasdeeclap:20170226203222j:plain

お笑いを語ると嫌われる――というか、まあ何についてにしろオピニオン記事というのは読んでいて疲れるものだ。ただ何故だろう、お笑いを解説することほどエラそうに見えることもないような気がする。たとえば、M-1の分析とか。しかし僕はこういうのが好きで結構読んだりするし、どうせなら何か書いてもみようと思う。

僕は、山崎邦正を目指したい。

 

www.youtube.com

高度だ(どうなんコレという発言もあるが...)。

数年前にセンター試験を受けた際、一番最後に会場入りすることによって緊張をほぐすことを思いついた。そして部屋を出るまでの間、この動画を見ていた。お陰様で会場には時間ギリギリに到着することができたし、狙い通り気持ちに余裕をもって試験を受けることができたし、志望校には落ちた

この動画の山崎邦正のつっこみはいわゆる「すべり芸」というやつだと思う。すべることによって生まれる絶妙な空気を笑いに変えているというわけである。サバンナ八木とかもこのタイプだと思う、多分。

お笑い芸人の方もよくすべり芸は高度だというが、どこが高度なのだろうか。大きな要因として、「お笑い」というものを俯瞰したボケのズレ方、というものがあると思うのだ。


一般的にボケの面白さというのは、常識、観ている人の「こうなるだろう」という予想に反するところから生まれる。たとえば、センターマイクに向かって出てきて二人が横に並ぶ(観ている人の予想)のでなく縦に重なってしまう(裏切り)というように。

すべり芸の大きな要素の一つとして、「漫才・コント・お笑い」というパッケージを俯瞰して、そこからさらにずらす、ということがあるのではないかと思う。観ている側としてはパッケージの外にずらされたことに気づくまで時間がかかるし、そもそもその内部のズレと比べて笑える範囲に個人差が大きいのではないか。

 

つまり、難しい。では、すべり芸はただのリスクが大きいやり方なのだろうか?

 

そうではないと思う。数か月前、雑誌『ブルータス』で漫才特集が組まれていた。漫才の歴史をたどる企画では、もう漫才のアイデアは出尽くした感がある、というふうに書かれていたと思う。これを僕なりに解釈すると、パッケージの中のずれではもう笑えなくなってきているんじゃないかということだ。たとえば、僕はYouTubeなどで昔の漫才を見るとそれを感じてしまう。

2010年のM-1では、ジャルジャルが漫才というものを、ある意味で馬鹿にした?ようなネタをやって、最下位になった。これは僕の中では「漫才というものを俯瞰でみて、そこからずれたところに着地した」という意味ですべり芸だ。

しかし6年後の今、これがある意味主流のような感じになってきている。最近でとても人気の漫才師といえば千鳥だが、「どういうお笑い?」をはじめ、「お笑い」というものを俯瞰したようなボケが多い。つまりここ数年で、観る側が普通のずれでは飽き足らなくなった、より大きくずれるものを欲するようになった、ということではないかと思うのだ。

 

ここから、二重どころではない、さらに外へのずれ、メタ構造というものも考えられる。つまり三重、四重と、普通なら理解できないところにずれることが「面白い」とされる時代が来るかもしれない。


えーと、つまり、すべり芸はお笑いのフロンティアだ。これからはいくらすべっても、それを理解できない聞き手が遅れている、ということにして笑ってくれるまでゴリ押すか、時代が追いついてくるのを待ちましょう。

音楽:WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメントH Jungle with t