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ラジオヘッドと、中学英語の長文読解と、英語を勉強しに大学へ行くことについて

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久しぶりにレディオヘッドを聴く。

僕のレディオヘッドとの初めての出会いは確か、中学生くらいの時に市の図書館で『Kid A』のアルバムを借りたことだったと思う。善き洋楽齧りたてボーイとして、オアシスとかグリーンデイばかり聴いていた。そこから少しずつ広げるには、いきなり『Kid A』は味が違いすぎた。オアシスが、砂糖がたくさん入った紅茶みたいな音楽だとしたら、はじめてのレディオヘッドは渋みのある無糖に感じられたとでもいえるだろうか。

とにかく、中学生のときにレディオヘッドを聴くことはそれ以降なかったんだけれど、一度だけ予期せぬタイミングで再会した。それはなんと県内模試の英語の問題だった。

 

長文読解で、確かレディオヘッドのアルバム『In Rainbows』の話が出たのだ。長文の大意は覚えていない――たしか芸術の価値とはとか、そういう話だった気がする。レディオヘッドはそのアルバムのダウンロード版の価格を購入者に委ねた。購入者が音楽に自由に値段をつけられるようにしたのだ。

僕は当時レディオヘッドを聴いていなかったが、そのアルバムの存在と、購入者が自由に値段をつけられるシステムにしていたことは知っていた。そのため、本文もわりに適当に読んで問題にとりかかった。

試験後、クラスの中で「あの文章はなんだったんだ?」と話題になった。レディオヘッドの箇所である。僕は友達から「なんなん、"ラジオヘッド"って?」と言われたので、長文の下についている注釈をちゃんと読んでみた。そこには、驚くほど適当な解説しかついていなかったのである。よくは覚えていないが、レディオヘッドバンドであることすら読み取れるか怪しい注釈だったと思う。知らずに読めば意味が分からなくなるのも無理はない問題だった。

 

まあこの問題に関しては不公平というか、さすがにレディオヘッドはちゃんと説明しないといけないだろうとは思う。ビートルズなら注釈なしで出題してもいいだろうけど。でも英語の長文読解ってこんなことの繰り返しだよな、という気がしたことは覚えている。

 

かつてどこかで見た"受験英語の図"では、点となって表れる英語力が氷山の水面上にある部分、知識は水面下にある大陸の部分に例えられていた。要するにベースとなる大陸の部分が弱いと英語も高得点は見込めない(国語も同じことである)。水面下の部分こそ強くしていかなくてはならないということだった。多少単語を知らなくたって、その分野への自分の知識が多ければ多いほど推測もしやすく、得点も狙いやすい。

僕自身、あまり単語をまじめに覚える人間ではなかったが、たまたま内容を知っていたのでゴリ押しできた長文読解問題も、例の件含めいくつかあった気がする。

そう考えていると、じゃあいったい語学の力って何だろう?という気がしてくる。最近見たニュースでは、会話を瞬時に翻訳する機械があと十数年もすれば完成するという。ただの道具である語学力なんて人間にはもはや必要のないものだろうか?

 

そうとは思えない。それは、いまのところのAIには言葉に辞書的な定義を固定する「通信モデル」のやり方はできても、経験に拠って文脈を使い分ける「推論モデル」のやり方は難しいといえるからだ(前に書いたことと同じだ)。状況と言葉の結び付け方に幅をつけられたり、または他人のつけたその幅をくみ取る能力は今のところ人間にしかない。

ここがちょっと先ほどの受験の図で説明しきれないところだと思っている。受験英語を超えたところにある英語では、水面下ギリギリの部分に「知識と言語の結び付け方」という新しい一段階が加わっている気がするのだ。そしてここを伸ばしていくには、"英語で"様々な文脈に触れるということしか方法はないはずだ。

そういう意味で、"英語を勉強しに"大学に行く、というのは立派な教養だと思うし、誇れることだよなと思う。他国語についても同じだ。

よく揶揄される、手段の目的化とはちょっと違うんじゃないかと思うのだ。そもそも僕は英語もあんまりできんポンコツ経済学部生としてもがいているけれど...全部の授業が終わって一ヵ月にもわたる試験期間に入り、現実逃避に文章を書いている。地獄だ。

 

ところで、レディオヘッドって、"ラジオヘッド"と訳されていたら語感が一気にダサくなりますよね。日本での人気が落ち込んでいたのでは、とさえ思う。

音楽:Idioteque - Radiohead