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二十一歳と、『17歳』と、20歳(体感時間における人生の半分)について

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"二十一歳の彼女は今日も歌を歌ってる"と始まる、斉藤和義の『アゲハ』という曲がある。先日これを聴いていて、そういえば自分もう21じゃないかと気づいた。ちょっと狼狽にも似た心持がした。

 

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この曲をよく聴いていたのは十代半ばのころだったが、21歳なんて遠いもののような気がしていた。弱々しく思い描いていた21歳は少なくとも今の僕よりは大人だった。誰が留学先で15歳に間違えられるようなことを想像していただろうか?(というのは、多分ただ背が低いからだけれど。)

そんな21歳は、わりとすぐにきてしまった。

 


コールドケース』というアメリカのドラマに、『17歳』というエピソードがある。ある事情を抱えた中年の犯人が、17歳の少年ばかりを狙って殺人を企てる。その動機は簡単に言えば、「こいつら永遠に生きていられるかのような顔してるから」という、無茶苦茶なものである。無茶苦茶でありながらそこにはある種の真っ直ぐさがあった。少なくとも僕にはそう感じられた。

終盤、犯人が自らの"17歳"を思い出すシーンは特に印象的である。ちなみに設定上の事件の日付は奇しくも僕の誕生日であった。観ていた僕は17歳にすらなっていなかったが、いつか若いということを懐かしむ日が来るのかと思った。


例の犯人のように、怒りの形を取ろうが、悲しみの形を取ろうが、はたまた諦めの形を取ろうが、若さに触れる人間からは基本的に羨望の匂いがする。人生の短さを考えると無理もない。

 

人生の体感時間というのは、20歳で半分を過ぎる、とどこかで読んだことがある。年を取るに反比例して体感時間がどんどん短くなっていくということだ。ジャネーの法則というらしい。

バカげていると思われるかもしれないけれど、成長に従う空間感覚の広がりが、時間感覚にも適用できると考えれば、そこまで無理もない話だ。反比例とはいわないまでも。

例えば小さい時には町から出るのも大冒険だったけれど、年を取るにつれて行動範囲はぐっと広がる。見たことのない景色がだんだん少なくなってくる。時間についても同じことだ、と考えるのも自然なことだろう。一日に対する新鮮な驚きの比重が小さくなってゆくのだとしたら。


また、成長に伴って、人間の可能性はどうしても狭まってしまう。しかも自分より年下の人間が何かを成し遂げていくのを見ながら、である。

高校野球も高校サッカーも選手はすべて自分より年下になってしまった。クリスティアーノ・ロナウドは18歳の時にはもうマンチェスター・ユナイテッドに引き抜かれていた。アークティック・モンキーズのアレックス・ターナーは19歳の時にデビューシングルを発売して、21歳の時にはもう世界一とも言われる音楽フェス、グラストンベリー・フェスティバルのヘッドライナーだ。えぇ...ヘッドライナーか...

 

若さを羨んでも仕方ないし、天才と自分を比べるとキリがない。人は日々できるだけ新しい景色を見られるように生きていくしかないのだろう。それが加速する時間への一番のブレーキで、ジャネーの法則への精一杯の抵抗なのではないか。毎日違うことをしなくてはいけないというよりは、同じことをしてもそこに違った景色を見出せるかどうか、ということなのだと思う。

 

 

『アゲハ』の"彼女"は、そのあと曲の中で二十二歳、二十六歳、三十二歳と年を重ねていく。無事に迎えられるとして、僕がそれぞれにたどり着くのもすぐだろうか。それは楽しみなことだろうか、それとも怖いことだろうか。

自分が若く見られることもあって、子供の側に好意的な解釈をするならば、そんな未来への姿勢こそが子供と大人の違いか。年を重ねることを喜ぶのが子供で、それを恐れるのが大人なんだろう。

 音楽:Not Nineteen Forever - The Courteeners