ツイッターに書ききれないことを書くところ

ツイッターに書ききれないことを書きます

それは自分の一部になって残っていく、かもしれない

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およそ2カ月ぶりの更新になる。日本にいる間は折角なので、日本語の文章のインプットを増やそうと考え、書くほうはしばらく休止することにしていた。結局アルコールばかりインプットしていた気もするが……

一時帰国中、このブログの感想等もいろいろ頂いたことは結構驚きだった。ほぼ毎月フェイスブックに自分でシェアしていたので、そこで読まれたのだと思う。ありがたいことだ。

 

何か思うことを書いてシェアするのは、一見たいへん勇気が要ることのようだ。しかし多くの場合、そんなことはないと思う。よっぽどでなければ褒められるに決まっているからだ。知り合いが書いたものに対して、なんだこれ?と思ったとしても、それを本人にぶつける人は稀だろう。

それは一種の落とし穴のようなものだ。誰にも批判をされなければ、なかなかいいものを書いていると思い込んでしまう。それに文章はただでさえ恰好を付けたものになりがちだし、意見を述べるようなものでは上から目線の調子になってしまうことも多い。見栄を捨て去ることが、文章を書く者にとってひとつの大きな目標であるとさえいえるかもしれない。

これはかなり一般的なことであるはずで、たとえば『火花』の作者である又吉直樹さんと、コピーライターの糸井重里さんの対談にもこのような部分がある。

糸井 どんなふうに読まれるのかとか、
考えたりしましたか?

又吉 多少は考えましたね。
これ、好きな人は好きなんだろうけど
怒る人もいるんじゃないかなとか
考えながら書いていました。

糸井 いや、基本的には
怒るような要素はなかったですよ。
ぼくは専門家じゃないんで、
どう言えばいいのかわからないんですけど、
「気張り」がなかったんです。
はじめて物を書くときって、
気張るじゃないですか。
要するに、みんな褒められたいんですよね。
でも、又吉さんの小説には
そのいやらしさが全然ないから、
どうやって自分を制御しているのかなぁと
思っていたんです。

www.1101.com

 ここで改めて感じられるのが、作品には否応なく、作者の分身のような一面があるということだ。それは文章だけでなく、創作物一般にいえることである。

 

いうまでもなく、どのような創作物もそれ単体では成立しない。作者や時代などの背景や、それを含めて受け取る人とのかかわりあいの中で初めて成立するものだ。そうでなければ僕も今からジャクソン・ポロックをやって150億で売る。(失礼だ)

よく「作品だけを評価してほしい」とアーティストが言ったりするが、それは原理的に不可能なのではないかと思う。知り合いのつくった作品なら猶更、普段のその人を想起せずに受け取ることは難しい。

こう考えると、批判の言葉をぶつけやすい人間である、ということは、凡才にとってはかなり重要なことなのではないかという気がしてくる。とくにまだまだ狭いコミュニティの中にいるうちは。なかなか難しいことだとは思うのだけれど、それはいずれ作品を大きく成長させるのだろう。

 

 

ところで、この話は過去の記事にも関連しそうだと気づいた。

sawasdeeclap.hatenablog.com

この記事で以前、こんなことを書いていた。いま肉体的に生きている、そのほとんどに出会うことのない70億人ちょっとよりも、死んでなお影響を与えている人のほうが僕にとっては"生きている"。

では実際に出会った人で、しかも何かを作っている人ならばどうか。記憶とあいまったその作品は、その人々と別れた後も強く自分に影響を与えるだろう。それは曲であって、絵や立体であって、写真であって、留学まんがであったりする。

どんな形であれ、何かを作って発表するという行為を僕は本当に尊敬する。仮に、当人が振り返った時に恥ずかしく、いわゆる"黒歴史"というものになっていても、果たして誰にそれを笑えるだろうか?

 

"その愚を哂(わら)ふ者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。"

芥川龍之介の『芋粥』という小説にさりげなく挟まっている一節だ。小説の筋とすれば今回僕が書いたことからずれるのだが、それにしても"人生に対する路傍の人"って、なんとも言えない良い表現だな。

音楽:若者のすべて - フジファブリック


(そう、ある人に、毎回記事の最後に"今日の一曲"みたいなのをつけているのがちょっと気障だといわれた。たしかに気障ですね笑 記事の内容にあっていると思った曲をつけてることもあるし、単にその時はまっていて何回も聞いている曲をつけてることもあります)