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夏目漱石の前期三部作

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ここひと月くらい、夏目漱石の"前期三部作"と呼ばれるものを少しずつ読んできて、最近読了した。『三四郎』『それから』『門』の三つのことだ。留学中は青空文庫のありがたさが身に染みる。

今更のようだが、夏目漱石の文章は本当に凄い。僕の印象としては、人の動き、情景などの描写は短い文でテンポよく描かれている。基本的に語尾が"だった"、"した"の連続だから余計にそう感じるのだろうか。しかし登場人物、特に主人公が何かを考える部分は比較的長い文章で、カッコつけた言い回しがなされている。

それがとても良い。読みながらいくつかメモしていたのでちょっと貼ってみようと思う。

 

 

 

この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。(三四郎)

 

三四郎はこの一節のもたらす意味よりも、その意味の上に這いかかる情緒の影をうれしがった。(三四郎)

 

すすすすす、であれ!(三四郎)

 

親爺の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得てゐるので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来る。そこで代助も已を得ず親爺といふ老太陽の周囲を、行儀よく廻転する様に見せてゐる。(それから)

 

坂を上つて伝通院の横へ出ると、細く高い烟突が、寺と寺の間から、汚ない烟を、雲の多い空に吐いてゐた。代助はそれを見て、貧弱な工業が、生存の為に無理に吐く呼吸を見苦しいものと思つた。(それから)

 

やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口から寂としていた。夫婦は例の通り洋灯の下に寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らして行く裡に、自分達の生命を見出していたのである。(門)

 

彼らの信仰は、神を得なかったため、仏に逢わなかったため、互を目標として働らいた。互に抱き合って、丸い円を描き始めた。彼らの生活は淋しいなりに落ちついて来た。その淋しい落ちつきのうちに、一種の甘い悲哀を味わった。文芸にも哲学にも縁のない彼らは、この味を舐め尽しながら、自分で自分の状態を得意がって自覚するほどの知識を有たなかったから、同じ境遇にある詩人や文人などよりも、一層純粋であった。(門)

 

 

 

相場は「すすすすす」、だそうだ。そうだっけ?