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人種的マイノリティとしての留学と差別、あと星野源

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留学とは僕にとって、人種的にマイノリティになった初めての経験でもある。そこで人種、もしくは差別について考えたことがいくつかある。というわけで、一つのごくごく小さな出来事と、それについて考えたことを書いてみる。

 

東アジアの人間を表すときに用いられる、目尻を指でキュッと上げる仕草を御存知だろうか?これを(とくに東アジア人以外が)その辺でやると、たいてい差別的な行為ととらえられる。

僕がこれを知ったのはあるサッカー選手がこれをやったとして問題になったことがあったからだ。その時は特に深く考えることはなかった。

ただ、留学に来てこれについて考えなおすことになった。

 

 

南米から来た友達と話していた時のことだ。家族の話になったときに、「私の祖父は"これ"だから」と、目尻を人差し指で上げる仕草をした。その人の祖父は中華系の人だったようだ。

友達はそれを自然にやっていたので、僕はちょっと驚いた。特に自虐的な匂いもなかった。身内の話をしているわけだし、悪意があってそれをやったわけではないだろう。

そこで僕は、それが東アジアの人々に対する差別的な仕草にあたるかもしれないことを伝えた。友達は相当驚いていた。

 

南米では多くの人が知らず知らずにこの仕草をしているのではないかと思う。それが問題になり得ることを知らないまま国際的な場に出て、急に問題視されて驚いてしまう人も多いのではないかという気がする。実際、差別的発言や行為で批判にさらされたサッカー選手(僕がサッカー選手について聞くことが多いだけで他の場でも起こり得ることだろう)の弁明を聞いていても、「これが問題になるとは知らなかった。深く謝罪したい」というのが多い。

もちろん国際的な舞台に立つ人間にとって、何が差別的な行動に当たるかというのは知っておくべきことであるのだろう。また、批判する側にも、まあ知らずにやったことだし大目に見てやれよ、ということもできる。どちらももっともな意見だと思う。

 

しかし、別の角度でこのことを考えてみたい。差別をなくそう!というとき、それは実際にはどういうことなんだろう?それについて考えずに、ただ差別的な発言や行動についてだけ取りあげる、というのは空虚なことじゃないか。

 

人が周りの人間を認識するとき、3つの段階があるのではないかと考えている。ひとつめは、人々の違いについて何も知らない、または考えない。分類がない、という状態。ふたつめは、様々な種類の人、もっと言えば自分と"違う"人がいる、というのを認識する状態。この状態になって初めて、差別的な言動や行動が生まれる。みっつめは、色々な種類の人間がいることを認識したうえで、差別的な言動や行動を学び、それを慎もうとする状態。

多くの日本人にとって、実感をもってふたつめのフェーズに入る時期は比較的遅いのではないかと思う。日本は殆ど一つの人種、民族で構成された国家といえるからだ。

それが関係しているのかどうかはわからないが、小学校中学校と学んだ道徳教育では、"差別をなくそう"というと、人を分類するのをやめよう、ふたつめからひとつめのフェーズに行こう、ということを表しているような雰囲気があった。僕がそう感じただけかもしれないが。

 

実際、いまの日本で集団ごとの違いについて触れるということはだんだん禁忌になってきていると思う。いろいろ例はあるが、特にお笑いはこの辺について敏感だと思うのでお笑い芸人の発言を貼ってみる。

numbers2007.blog123.fc2.com

集団にすぐレッテルを貼るな、というのは確かにもっともなことだ。

 

しかし分類は確実に認識の一部だし、人間らしい営みの一部だということもまた事実だ。学習の本質ともいえる。

オリンピックでの100m走決勝進出者を見れば、瞬発力において黒人の能力が高いのは事実だとわかる。多くの人々が、白人の顔に憧れているのは事実だ――これを否定するならば、イケメンや美人の顔の特徴がどういうものであるか考えるべきだと思う。

では、これらの違いには触れてはいけないのだろうか。そうではないと思う。差別に対する立ち向かい方とは、違いを受け入れたうえで、何が問題行為で、何がそうでないのかという微妙なラインを考えていくことなのではないか。それは時代や、集団によっても変わるもので、一律に決まっていて従うだけのものであるはずがない。

 

僕には、最近"違い"というものの存在をシャットアウトしにかかる風潮があるとしか考えられないのだ。男らしさ、女らしさというものをある種タブーにしてジェンダーレスと言っていればそれでいいのか。根底に流れる人々の美意識について考えないで、ただむやみにハリウッドのホワイトウォッシングを批判していればいいのか。

 

特に人種問題は、過去に多くの血が流れたこともあってタブー視されている側面が強いと思う。頭痛のタネには触れることなしに、世界はひとつだ、みんな同じ人間じゃないかとひたすら唱えているほうが楽だし、棘が立たないし、批判されることもない。

しかし僕は、そんな思考停止状態で行為――例えば目を吊り上げる仕草――だけをただ叩くという状態を、ごく表面的で馬鹿げたものだと思う。人種的平和ボケともいうべきか。それこそ過去の人々の苦しみを、ただ無駄にすることなんじゃないだろうか。

 

 

星野源といえば、最近ではモテないふりをしただけのチャラい男、と言われているのをよく見る。でもチャラいだけの人ではない。いろいろなことについて深く考えている人で、僕はそういうところが大好きだ。どこかで読んだインタビューによると、彼は、テレビで言われていた"世界は一つ"という言葉に違和感があったという。デビューアルバムの一曲目、『ばらばら』という曲の歌いだしで、彼はただ、ひとことでこう言っている。

"世界はひとつじゃない"

 

ヨーロッパ人だらけのクラスの中に、中国人だけのフラットメイトの中に、身体の美しさのレベルがまるで違うファッションモデルの中にひとり、異質なものとして、留学中の僕が在る。

世界はひとつじゃないし、ひとつになってたまるか。